89 海部族

2011年5月18日 (水)

宍喰の謎

ここんとこ宍喰の祇園さんで、記事をアップしてます。
文献を探すと、よく出てくるのが三大祇園です。

京都、備後の鞆とならんで、宍喰が3大祇園だという話。
備後風土記に記述されている話とかがその源らしい。
どうも、宍喰は京都と関係があったらしい。

前々から、宍喰の町を歩いていて気がついたことがある。
この町は条里制になっている。
京都の町並みに似ている。
一条、二条とかがないので、ただの偶然なのか?

確かに、全国あちこちにある小京都には名を連ねていない。
どうしてなんだろうか?

それと先ほどの三大祇園。

Wikipediaでは、三大祇園は
祇園祭(京都市、八坂神社)、
博多祇園山笠(福岡県福岡市、櫛田神社)、
会津田島祇園祭(福島県南会津町、田出宇賀神社、熊野神社)となっている。

どれが正しいの?
いろんな謎があるなぁ...

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2011年2月 9日 (水)

早朝ランと阿波三峰

今日も早朝ラン。
昨日は5時半起きで6時スタートに失敗したので、5時起き。
コースは勝浦川を遡るコースです。


今日走っていて、勝浦川右岸を下って行くとちょうど日の登る方に日の峰がある。
あぁ、それでか、と実感しました。


阿波三峰といって、中津峰、日峰、津の峰があります。(誤字御容赦)
じゃあ、中津峰って、どうよ?ってことです。
津の峰は、意味がすぐわかるので、論外ですね。

先日、吉見哲夫さんの海部族に関する著作を読んで思ったんですが、「中」は「那賀」のことかな?と。
同じよう地先日ドライブしてましたが、小松島に中郷(なかのごう)という地名がありますが、これもそうかな?
なんて、走りながら考えていました。

ちなみに、今日は約90分、約15キロ程度。徐々に距離をのばしていきます。

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2011年1月18日 (火)

阿波国海部郡薩摩郷のいわれ

年末は少し時間があったんで、薩摩郷について考えてみた。
記事のこともあったし、K師匠からその記事をもらったし。

「薩摩郷」の場所ではなくて、なぜ「薩摩」と呼ぶのか?
そして、どうして文献にそれほど出てこないのか?

ウィキペディアで薩摩国をしらべて見た。
沿革のことろで目がとまる。こんなことが書いてある。

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大宝2年(702年)に、日向国から唱更国が設けられた。
唱更(はやひと)は、辺境を守るという意味である。
『続日本紀』8月1日条にある、薩摩多褹を征討し戸を校して
吏を置いたという記事が、唱更国と多褹国の建置を示すと
考えられている。
唱更国は、数年以内に薩麻国に改められた。
8世紀半ば以降のいずれかの時点で薩摩国に改称した。
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ふーん昔は別の名前だったんだ。
じゃあなんで「薩摩」とつけたんだ?

って考えたら、薩摩の語源を調べたら、
同時に「薩摩郷」のいわれもわかるんじゃないかな?

「薩摩」を固有名詞的に考えたら答えは出ないけど、
普通名詞的に考えたら、面白いんじゃないかな。

で、ネットで調べてみた。
あった。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~tsuushin/sub16.html
出典:「山ものがたり」から

「薩摩」=さつま(狭詰)。詰まった地形。奥まった所。さつま(狭端)。

意外と簡単。
そう、「薩摩郷」は、「狭詰郷」だったんだろうなぁ。

薩摩には、まだ他の意味もあるかもしれないけど、
とりあえず、ほっとしました。

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2011年1月 5日 (水)

水主神社の経箱に書かれた墨書の記事

水主神社の大般若経奥書に書かれた「海部郡薩摩郷八幡宮」ですが、
先日、kazunoriさんから、ご指摘がありまして
12月6日の徳島新聞を確認しました。

この記事によると、
・1~11巻の奥書によれば、阿波国の「海部郡薩摩郷八幡宮」に奉納された。
・80巻までは、「藤原朝臣富田沙聖蓮(ふじわらのあそみとみだのしゃみしょうれん)」を檀那としている。
・また、14世紀末に書写され、讃岐国へ移された。

これとは別に、
・81巻以降は15世紀前半に書写され、
・その時大般若経は、「海部多羅多門坊(かいふたらたもんぼう)」にあったらしい。

ここで、2つの地名が出てきました。
「富田」と「多羅」です。

「富田」は、吉田の北隣です。
「多羅」は、多分「多良」のことです。

「富田」はわかりやすいとして、「多良」がでてくるとはね。
まぁ、「芝」の対岸ですので、ひとくくりにできる地域です。
「高園」は、なぜか「吉野」の杉尾神社の氏子となっていることを考えても
違和感はないのですが、あんまり大きなお寺があったという記録がないんです。
「多門坊」ってなんなんでしょうね?

時期的に、中山神社が焼け落ちてからのことかと思いましたが、
それは天正のことですから、16世紀ですし、1世紀ずれてます。

この記事、2部構成なので続編が楽しみです。
ちなみに、12月6日の徳島新聞の記事は
徳島県立博物館の学芸員、長谷川賢二さんによるものですが、
海部と薩麻」の記事で書いたセンセイというのは、この方のことです。

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2010年11月22日 (月)

芝から高園、曾禰の君、そして八幡神社

ここで、芝が出てきました。
芝は、けっこう古い集落のようです。

海部町史によれば、
芝は隣接の高園、野江と併せて「三が村」と呼ばれ、
芝の森の新居神社を氏神として
藩政時代には、行政上関連の深いところだったようです。

しかし集落はさらに古くからあり、
海部族がこちらに住みついた時分からのようです。

なかでも「三が村」の高園は、川西町史よれば、
古くから「海部」と呼ばれた土地らしいです。

高園は、曾禰氏という古代の豪族が移り住んだという話もあります。
曾禰氏と海部族の関係はよくわからなかったけど、
芝から高園のあたりは、海部族に縁のある所のようですね。

ひょっとしたら、薩摩の郷も芝だけでなく、中山から吉田、
高園を含む地帯なのかもしれません。
あるいは、もと川下の鞆浦まで含むのかも。

そうなると、香川県、水主神社にある大般若経が
奉納された「阿波国海部郡薩摩郷八幡宮」は、
中山の王子神社なのか鞆浦の和奈佐意富曽神社
どっちなんでしょうか?

ちなみに、この時分はまだ、和奈佐意富曽神社は大里松原へ遷座されていません。

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2010年11月18日 (木)

阿州海部郡薩摩の郷北山薬師如来

さて、再び薩摩郷に話を戻します。
中山に隣接の集落に、芝があります。

海部町史には、
「芝の山下から、新居神社に至る低い尾根にそって、
厳島、山神、神明、荒神など、多くの神社が祀られ、
北山薬師跡、地蔵寺かまたは他の古い寺の
屋敷跡・石仏・古墓などが散在している」と記載があります。

この北山薬師庵は地蔵寺の末寺で、元梅木谷の
丘の上にあったらしく、明暦(1655~1657)の棟附帳に
「地蔵寺末寺薬師庵」と書かれているそうです。


この北山薬師ですが、その由来記の冒頭に興味を引く表現があります。

「そもそも阿州海部郡薩摩の郷北山薬師如来は
行基菩薩日本行脚し給う時この鷲木を以て御長弐尺壱寸の薬師の尊像を.・・・・」
(芝北山薬師如来御由来記/明治30年3月12日 谷口小酔文)

この記述を信じるなら、芝は薩摩郷にあったとなります。

ちなみに、この薬師如来、三姉妹だそうで、
上から順に、能山薬師、北山薬師、日和佐の薬王寺となっているらしいです。

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2010年11月17日 (水)

阿波国海部郡薩摩郷八幡宮

香川県、水主神社にある大般若経奥書には「海部郡薩摩郷
ということばが記載されているらしい。

これによると、1~11巻の奥書には「阿波州海部郡薩摩郷
などのことばが記載されていて、
全体のうち80巻までが、1398~99年(応永5~6)に
阿波国海部郡薩摩郷八幡宮に奉納されたとなっているらしい。

前に書いた、「薩麻郷」と「八幡神社」がつながりましたが、
肝心の場所は特定できずになってます。

詳しくはこちら ↓
http://www.museum.tokushima-ec.ed.jp/hasegawa/manyu/mizushi.htm

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2010年11月15日 (月)

王子神社

中山に王子神社、旧称王子権現という祠があり、
長曽我部氏が攻め入ってきたときに、吉田城、城満寺と
一緒に消失したといわれている。

Spb060004
▲王子神社

先日、図書館で川西村史を手にとって見た。
それによると、近くの真光寺の襖張替のときに裏張りの中から
見つかったと、地元の家に伝わる文書があったらしい。

 「抑当村王子大権現は往古海部拾八ヶ村浦里氏宮にて
御座候所右社及大火候其後鞆浦大宮村へ守廻し拾八ヶ村
浦里惣氏に奉崇候然る所当村王子大権現御神体及大破に
再建仕度候得共少氏の事故再建難出来何卒多力を以再建
成就仕度義に御座候不拘多少勧化御志の程奉希候以上」

いつのものははっきりしないけど、享保年間のもので、
真光寺平地開山一世凸巌禅師の頃らしい。

八幡さんは、鞆の前にここにあったと書かれてあるんですが、
ほんとでしょうか?

ところで、下の写真は神社境内にある、石の手水鉢です。

Spb060002_2
▲石の手水鉢

立て札を拡大してみるとこんなことが書かれてます。

Spb060001_2
▲王子神社の立て札

王子神社もけっこう古いようですね。


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2010年11月 9日 (火)

八幡神社と和奈佐意富曽神社

先月祭りが行われた、大里松原にある八幡神社は、
もともと鞆浦にあったといわれている。
だんじり、関船の入ってくる順番なんかでも、
大里、免許と最後は川東の方なので、よくわかる。

この神社、最初は鞆の大宮のあたりにあったらしい。
天正年間に浜崎に移され、慶長9年に今のところに遷座されたらしい。

もとは和奈佐意富曽神社(わなさおふそ)といい、
大里遷座を機会に八幡神社と改称されたらしい。

さて、大宮の神社は、平安時代からあったというから、相当古いんだなぁ
では、大里の方はいつできたのかな?

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2010年11月 4日 (木)

海部と薩麻

もう5年くらい前に、震潮記をいただいた方から、
海部にサツマって地名ないですか?
と聞かれたことがありました。
この方がいうには、
奈良市の平城宮跡から出土した8世紀の木簡に
「阿波国那賀郡薩麻駅」という駅名があるらしく、
博物館かどこかのセンセイに聞かれたらしいです。

詳しくは↓
http://www.museum.tokushima-ec.ed.jp/hasegawa/manyu/mizushi.htm

その時にワタシは、
地名はないけど、人の姓ならあります、とお答えしました。
海部の中山によくある「左津前」(さつまえ)姓、
日和佐にはそのまんま、「薩摩」姓があります。

そのときは、お教えして終わったんですが、
あとで自分で調べてみたら、
8世紀なんだから海岸線は今より内陸寄りなんだろうな。

中山も海に近かったかも。

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